『賢 治』
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通い始めた学校にも慣れ、夏を前にしたある日常。 少年・賢治には、誰にも語ることがない過去があった。 賢治の過去にある記憶、義姉の死という事件。 賢治が願うただひとつの幸い、「普通」は、日常の歯車が小さくずれただけで非日常へと変貌してゆく。 賢治の過去から、「普通」の日常が侵害されたとき、彼は静かに動き出した。 これは少年の身の回りで起きた、夏が近づいた季節、数日間の出来事。 文庫版(A6) 122ページ (23,928文字) 2021/11/23発行 第33回文学フリマ東京出店 ・「ゆうメール」での発送となりますのでご了承ください
SAMPLE
『賢治』サンプルを掲載します。お話の冒頭を掲載しています。 ————————————————————————— #1 つぐみが二羽、飛び立った。 微かな羽ばたきを残し飛び去った姿は、散りぢりに透ける明るい雲間で小さな影のようになり、やがて見えなくなった。 小鳥を不意におびやかしたのは。 翻った義姉のワンピース。 マンションの屋上から、拓けた朝焼けの空。 義姉は、跳んだ。 時間が停滞した錯覚の中で。 ぽかんと無垢な表情の義姉と眼があった。 手を伸ばしてみても。 義姉には届かない。 不意に射る閃光に眼を細め。 遠くなる義姉の姿が明るく照らし出された。 一瞬の明滅。 義姉は、微笑ったようだった。 しなやかに伸びた長い指が、白く輝いた。 義姉の身体は、やがて建物の影に隠れ。 朝の澄んだ空気のなかで、紙を握りつぶしたような乾いた音が響いて消えた。 理由もなく、義姉は、義姉の話していた列車に乗ることができたのだと確信した。 一 「宮沢ッ!」 頭上の一喝に、賢治は眼を開けた。 「お前、何をしていた?」 「え?」 深い皺を眉間にたたえた、佐々木の姿。 頭を上げた賢治はあたりを見渡した。 カーテンを揺らす心地よい陽だまり。 鈍く光る黒板。 賢治と数学教師の佐々木が対峙した成り行きを、息を殺して見守る生徒たちの表情。 佐々木のこめかみが痙攣していた。 「もう一度訊くが、お前は今、何をしていた?」 「眠っていたようです」 賢治の即答に、クラスの端々から起こるさざ波。 「お休みのところ申し訳ないのだが」 窒息したように顔面を染めた、佐々木の言葉が震える。 「あの問題を解いてみてはくれないか?」 賢治は立ち上がると教科書を取り、黒板に歩き出す。 視線の端では、隣の飯野がジェスチャーを送っていた。 飯野は自分の教科書を、しきりに指差している。 軽く首を傾げながら、賢治は自分の持つ教科書をしげしげと見つめた。 『詳説 世界史B改訂版』 「――宮沢ァッ!」 佐々木の背中が爆発した。 ◇ 賢治が教員室から解放されたのは、昼休みも終わりに近づいた頃だった。 「お疲れ」 と声をかけた葛原。 掌でこたえ、賢治は席につく。 「宮沢ってさ、ホント、アレだな」 と椅子を寄せてきた富岡に、 「?」 「あの佐々木に、あの態度だろ。ある意味すげえわ」 「な。こっちがハラハラしたわ」 葛原も腕を組み、富岡に同意した。 「気をつけるよ」 と賢治。 「気をつけるって……」 「お前な、もうちょっと身の振り方考えないと」 「え?」 「お前の敵は多いってこと」 葛原はにやにやと、 「これで佐々木は確定だろ? あとはこないだの現国で……」 「枚挙にいとまなしだな」 葛原と富岡が話題に興じる。 賢治は頬杖で二人の会話に耳を傾けながら、柔らかく温まった窓の外に視線を向けた。 「でも、何気にアタマいいんだよな」 「授業なんて聴いてないのにな」 富岡はしげしげと賢治を見つめる。 「どんなチートだよ」 葛原の言葉に、 「一度見れば何となく解るし、やってみればできるから……」 「でたよ」 「またそれか」 葛原と富岡は、お互いに言葉を吐いた。 「ねえねえ」 鈴木が割って入ってきた。 「何だよ」 不機嫌を装った葛原に、鈴木は携帯を指し示す。 「これこれ、見て」 「お……。これ近所か?」 鈴木が見せたネットニュース。 「……コンビニ強盗って」 富岡もすぐに携帯を取り出し、覗き込む。 賢治に見せた画面には、商店街の喧騒にナレーションが続く。 「一人撃たれてんじゃんかよ」 「これガッコの傍じゃねえか、大丈夫かよ」 「速報らしいんだけど」 「銃持ってうろついてる輩が、その辺にいるってことか?」 お互いが自分の携帯を覗き込んでいると、午後の授業を開始するチャイムが鳴り出した。 スカートを翻し駆け込んできた飯野。 「ね、ね」 息を弾ませて、 「何かあったの?」 教員室が大変な騒ぎになっているのだという。 あらましを伝える葛原の言葉と、携帯の動画を見比べながら、飯野は青ざめた。 授業は始まっているのだが、教師が現れるようすはない。 「どうしよ……?」 不安を隠さない飯野は、 「宮沢くんは大丈夫なの?」 「え?」 賢治に、皆が顔を向ける。 「びっくりするくらい冷静じゃんか」 「いや、驚いてるよ」 賢治は続けて、 「でも、とりあえず危険はないと思う」 「は?」 「どうして?」 不安と興奮が入り交じる言葉に、賢治は淡々と返答する。 「強盗は顔を隠していたらしいし、姿を見たのも撃たれた人だけだから」 ぼんやりと窓の外に視線を移し、 「救急搬送されているから、事情聴取には少し時間がかかるだろうし、この隙に逃走するのが犯人にとって最良の選択肢だと思うよ」 「そう言ったって」 富岡が身を乗り出す。 「逃げるのはまわりが見てるんだろ? 警察だっているんだから、そりゃあ無理だろ」 「……そうだよな」 頷く葛原と鈴木。 賢治は淡々と、 「顔は不明だし、服装も上着一枚脱ぐだけでだいぶ印象が違うんじゃないかな」 賢治は富岡の瞳を見つめた。 「どっちにしても、これ以上騒ぎを大きくする必要は犯人にはないよ」 「それは……」 「立て篭もったりする方が、それこそリスクが大きいんじゃないかな」 賢治はゆっくりと、 「そう考えれば、ちょっとは気休めになるでしょ?」 口許を綻ばせた。 拍子抜けしたように、葛原と富岡は口をつぐみ、お互いに顔を見合わせた。